Share

第8話 止まったフォーク

last update publish date: 2026-06-25 20:00:00
温かいスープが運ばれてきた頃には、私はすっかり疲弊していた。

真帆を演じることに、ではない。嘘に嘘を重ねながら、この人の真摯な問いに答え続けることに。

張り詰めた緊張感のせいで、せっかくの美しいスープの味もほとんど喉を通らなかった。

「先程の話ですが」

黒瀬さんが、ワイングラスを置きながら言った。

「友人と仕事の話をされる、とおっしゃっていましたね」

「……はい」

「楽しそうに話されていた」

「え?」

「友人と話す時の、表情をされていました」

気づいていなかった。答えながら、自然と葵のことを頭に浮かべていた。

「代わりに言ってあげたの」という声。それが顔に出ていた。

偽物の「西園寺真帆」としてではなく、ただの「私」として、大切な親友を思い浮かべていた瞬間の顔を、この人は見逃さなかったのだ。

「……そう、でしょうか」

「ええ」

少しの間、沈黙が流れた。

カトラリーが触れ合う微かな音と、他のお客たちの楽しげな話し声が、遠くの方で聞こえる。

「大切なお友達なんですね」

責めるでも探るでもなく、ただそれだけのことを言った。

その瞬間、黒瀬さんの目がほんの一瞬だけ細まった。温度のない目ではなかっ
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • 身代わりお見合いの花嫁〜冷徹社長は偽りの愛を見抜いている〜   第59話 奈緒との約束

    奈緒さんからのメッセージに、一週間、返事を返せずにいた。『一週間、お返事がないですね。逃げ回るのも、そろそろ限界ではないですか?』あの一文が、既読のまま画面に張り付いたままだった。何度開いても、返す言葉が見つからない。話さなければ何も変わらない。話せば、何かが動く。どちらに転んでも止まれないとわかっていながら、決められずにいた。そして今朝、追い打ちをかけるように、二通目が届いた。『お返事、お待ちしています』たった一行なのに、画面を閉じた後も文字が目の裏に残った。城島さんに相談すると、「社長にお伝えします」とだけ言って、それ以上は続けなかった。いつもの淡々とした声だったのに、今日はどこか、言葉を選んでいるような間があった気がした。◇木曜日の昼休み、スマホに着信が入った。奈緒さんだった。出るべきか一瞬迷い、意を決して応答した。『西園寺柚葉さん、ですよね』穏やかな声。パーティーで聞いたのと同じ声だった。「はい」『一度、直接お話しできませんか。場所はどこでも。あなたが決めていいですよ』──どこでも。あなたが決めていい。その言い方が、計算されていると思った。逃げ場を自分に選ばせることで、断りにくくする。「……どんな話ですか」『柊さんのことです。あなたのことも』「それだけでは、会う理由になりません」電話の向こうで、少し間があった。『そうですよね。では、こう言いましょうか』声の温度が、わずかに下がった気がした。『私が話さなくても、あなたの過去は、いずれ表に出ます。会ってくれれば──その速度を、少し遅らせることができる』過去。五年前のこと。頭の奥で、忘れたい記憶が音を立てて動いた。手のひらが、冷たくなった。五年間、誰にも言えなかった。葵に話した夜、ようやく言葉にできた。それでもまだ、「過去」という二文字を向けられると、体が先に反応する。

  • 身代わりお見合いの花嫁〜冷徹社長は偽りの愛を見抜いている〜   第58話 取締役会の懸念

    その夜。私は自宅で一人、お湯を沸かした。誠一郎さんの家で聞いた「続きは、また今度」という言葉と、柊さんの手の温もりが、まだ両方とも胸の中に残っていた。マグカップに茶葉を入れ、湯を注ぐ。立ちのぼる湯気の匂いを吸い込んで、少しだけ息をついた。スマホが、テーブルの上で光った。城島さんからだった。電話ではなく、メッセージだった。『先週の記事を受けて、一部の役員および親族から、正式な文書が届きました。内容を確認していただきたく、資料をお送りします』続けて、PDFファイルが送られてきた。指が、開くのを一瞬ためらった。◇開いた文書には、丁寧な言葉づかいの中に、刃のような一文があった。『後継者の伴侶として、素性の不確かな人物との交際は、グループの信用に関わる』素性の不確かな人物。正しくはない。でも、完全に間違いでもない。身代わりとしてお見合いに行った。姉の名前を使った。五年前のことを隠している。マグカップに口をつけた。さっきまで熱かったはずのお茶が、いつのまにかぬるくなっていた。舌の上に残る苦みだけが、やけにはっきりしていた。数分後、電話が鳴った。城島さんではなく、柊さんだった。『文書のこと、読みましたか』柊さんの声は、いつも通り感情を乗せていなかった。「はい。今、読みました。柊さんの地位が、危うくなっているんですね」『事実です。俺の立場が揺れているのは、事実だ』「私のせいで……」『柚葉さんのせいではありません』柊さんが、はっきりと言った。『これは、記事を書かせた人間の狙い通りに進んでいるだけです』「記事を書かせた人間──」『まだ、確証はありませんが』柊さんが一拍置いた。『それを理由に、俺はあなたを手放すつもりはない』その声には、迷いがなかった。『柚葉さん。逃げるなら、今のうちに言ってください。俺が引き止める前に』◇しば

  • 身代わりお見合いの花嫁〜冷徹社長は偽りの愛を見抜いている〜   第57話 誠一郎の庭・後半

    「待たせましたか」電話を終えた柊さんが、縁側に戻ってきた。「いいえ」誠一郎さんは、何事もなかったように温かな笑みを浮かべると、ゆっくりと立ち上がった。「柊、戻ったか。私は少し母屋で休むとしよう。柚葉さん、またいつでも遊びに来てください」「あ……はい、ありがとうございます」城島さんに支えられながら、誠一郎さんが奥へと消えていく。さっきの「続きは、また今度」という一言だけが、まだ胸の中に引っかかっていた。私の嘘に勘づいていたのだろうか。それとも、ただの気遣いだったのだろうか。「祖父と、何を話しましたか」二人きりになった縁側で、柊さんが私を見下ろして尋ねる。「内緒です」柊さんの眉が、わずかに動いた。何かを追及しようとした様子だったが、ふっと息を吐いて私の隣に腰を下ろした。諦めたというより、受け入れてくれたような顔だった。二人で並んで、静かな庭を眺める。◇雲の切れ間から差した日差しが、縁側の板に触れて、じんわりと温度を上げていく。膝の上に置いた手のひらにも、同じ温かさが伝わってきた。「祖父は、昔から人を見る目が厳しい」柊さんが言った。「はい、そう聞いています」「あなたのことは、最初から気に入っていました」「なぜわかるんですか」「懇親会の席で、祖父があなたに声をかけた時の顔が、いつもと違ったので」しばらく黙って、光が変わっていく庭を見ていた。「柊さんも、人を見る目が厳しいですよね」「そうですか?」「コリアンダーとか、グラスとか。見ていないようで、全部見てる」柊さんが、視線を庭に向けたまま「そうかもしれません」と言った。そのまま、しばらく何も言わなかった。二人で庭を見ている、ただそれだけの時間がそこにあった。「……建築家になりたかった、という話を、前にしましたね」柊さんが、唐突に言った。

  • 身代わりお見合いの花嫁〜冷徹社長は偽りの愛を見抜いている〜   第56話 誠一郎の庭・前半

    あれから、柊さんと連絡を取り合って調整し、記事が出てから五日後。祖父の誠一郎さんが待つという、お屋敷へ向かう日がやってきた。誠一郎さんが私に会いたいと言っている──その伝言を聞いてから、胃がチクチクと痛み続けていた。当然だ。お見合いに姉の身代わりとして現れ、ついにはスキャンダルで黒瀬家の名に傷をつけてしまった。最悪の場合、「もう関わらないでほしい」と直接言われるかもしれない。黒瀬家の名を傷つけた娘を、誠一郎さん自身の口で追い返すつもりかもしれない。怒鳴られても、言い訳をせずに謝ろう。それだけを、車の中でずっと繰り返していた。隣の柊さんは、窓の外を見ていた。その横顔が落ち着いているのが、かえって不安だった。◇城島さんの車で案内されたのは、都心から少し離れた閑静な住宅街にある、大きな日本家屋だった。門をくぐった瞬間、乾いた木の匂いと、庭木の青い匂いが同時に鼻を掠めた。都会では感じたことのない、静かな匂いだった。玄関に入るなり、柊さんが眉をひそめた。「……すまない。急ぎの電話が入ってしまった。先に行っていてくれ」嘘、と思った。一人で誠一郎さんの前に立つのか。「は、はい。大丈夫です」引き留めるわけにもいかず、私は頷いた。城島さんに案内されながら、一人で奥へと進む。磨き上げられた廊下が、自分の足音を必要以上に響かせる気がした。誰もいない廊下を歩くたびに、緊張が一段ずつ上がっていく。広い廊下の先に庭が見えた。畳と障子の匂いに、微かな線香の香りが混じっていた。縁側に、誠一郎さんが座っていた。城島さんは、少し離れたところに控えている。「来てくれましたか」誠一郎さんが、いつもの穏やかな声で言った。その声が、緊張していた私の肩を少しだけほぐした。「はい。あの、記事のことは……」「知っています。気にしなくていいですよ」誠一郎さんが、庭の先を見つめながら言った。青々とした葉の匂いが、風に乗って強くなった。「

  • 身代わりお見合いの花嫁〜冷徹社長は偽りの愛を見抜いている〜   第55話 業界紙の記事

    澄川奈緒からのメッセージに、翌朝になっても返信できていなかった。画面を開くたびに、朝の白い光が文字の上に反射して、余計に読みづらくなる。何度か読み返した。返信しようとして、指が止まった。◇出社してジャケットを脱いだ瞬間、葵が駆け寄ってきた。「ねえ。これ、見た?」差し出されたスマホの画面が、蛍光灯の下で妙に白く光っていた。ゴシップサイトの見出しが、その白さの中に黒々と浮かんでいる。『黒瀬グループ社長、お見合い相手の実の妹と交際か。妹が姉になりすまし、お見合いの席に現れたという証言も』私は画面を持ったまま、一文ずつゆっくりと読んだ。事実の部分がある。真帆が最初の見合い相手だったこと、私がその妹であること。黒瀬グループの懇親会に私が出席していたこと。でも書き方が、違った。『なりすまして、見合いの席に現れた』──まるで私が自分から画策したかのような文章だった。姉に脅されて、断れない事情があって、仕方なく代役をしただけなのに。事実を捻じ曲げられ、悪意に満ちた言葉で塗りつぶされていく。その一方的な書かれ方に、胸の奥から悔しさが湧き上がった。だけど、同時にそれを打ち消すような諦めが私を支配する。「……嘘じゃない部分があるから、余計に始末が悪い」気づいたら、声に出ていた。「柚葉、大丈夫?」「うん。……うん」うん、と言いながら、全然大丈夫じゃなかった。おかしいと思うより先に、疲れた、と思った。嘘をつき続けてきた。そのことへの罰が来たような気がして、反論する言葉が見つからなかった。同時に──この記事を書いたのは誰か、という問いが、頭の奥から離れなかった。◇その日、フロアの空気が変わった。わかりやすく変わった、というわけではない。誰かが何か言ったわけでも、直接聞かれたわけでもない。でも、すれ違う人たちの視線の落とし方が違った。廊下で松

  • 身代わりお見合いの花嫁〜冷徹社長は偽りの愛を見抜いている〜   第54話 城島の気遣い

    月曜日、定時を過ぎたオフィスで、キーボードの音がまばらになっていく。その隙間を縫うように、スマホが震えた。画面に「城島」という名前が出た瞬間、少しだけ背筋が伸びた。柊さん本人ではなく城島さんから連絡が来る時は、大抵、何かある。「もしもし?」『西園寺さん、少しよろしいですか』「……はい」『お近くにいらっしゃれば、ご足労をおかけして申し訳ないのですが』指定された場所は、会社から数分のカフェだった。エレベーターを降りると、一階のロビーは人の声で低くざわめいていた。自動ドアが開くたびに聞こえる、通りの喧騒。信号の変わる音。ヒールの音を数えながら歩いた。コンペの件だろうか。それとも、柊さんに何かあったのだろうか。考えがまとまらないうちに、カフェの前に着いた。◇城島さんは、奥の二人席に座っていた。深いグレーのスーツ。いつも通り、物静かな表情だった。でも今日は、少しだけ雰囲気が違う気がした。「来て下さり、ありがとうございます、急なご連絡にもかかわらず」「いえ」席に着くと、エスプレッソマシンの低い駆動音が背後で響いた。城島さんが、薄い封筒を差し出す。「社長から、お届けものがあります」開けると、コンペの案件に関する追加資料が入っていた。競合他社の分析データと、スケジュールの修正版だった。「……直接、家に送れば良かったのでは」言ってから、少し意地悪だったかもしれないと思った。しかし、城島さんは動じなかった。「はい。ただ──ひとつ、申し上げても良いですか」「どうぞ」城島さんが、コーヒーカップをソーサーに置いた。その小さな音が、やけにはっきりと耳に残った。「社長が……あなたのそばにいる時間を、大切にされているのはわかりますか」「わかります」言ってから、思った。本当にわかっているのかと。「城島さんが、なぜそれを私に伝えて下さるのですか」城島さんが

  • 身代わりお見合いの花嫁〜冷徹社長は偽りの愛を見抜いている〜   第5話 鳴らないはずの電話

    一段階低くなった姉の声が、耳の奥に刺さった。『あたしが今の彼との話をまとめるまで、黒瀬の目を逸らし続ける必要があるの。黒瀬家とうちの家、色々と込み入った事情があるのよ。あんたが勝手に終わりにして、黒瀬側から実家に何か連絡でもされたら、全部おじゃんになる。わかる?』「わかってる。でも──」『断るなら、五年前のこと、全部バラすから』返事も待たず、音が消えた。また、五年前のことで脅されてしまった。昔から、姉は私の弱いところを探すのが上手かった。私はしばらく、その場に立ち尽くしていた。

  • 身代わりお見合いの花嫁〜冷徹社長は偽りの愛を見抜いている〜   第4話 終わったはずが

    『先程は、お時間をいただきありがとうございました。──黒瀬柊』彼からのメッセージは、それだけだと思っていた。数秒後、同じ番号から、もう一通届いた。『次回、ご都合の良い日を教えていただければ、合わせます』画面の番号を、もう一度確かめた。間違いない、黒瀬さんからだ。お見合いの書類に載っているのは、姉の連絡先のはず。さっき、私が口頭で伝えた番号──黒瀬さんはそちらに送ってきたのか。「合わせます」という一言。感情がない、と思った。温かくもなく、冷たくもなく、ただ的確だ。

  • 身代わりお見合いの花嫁〜冷徹社長は偽りの愛を見抜いている〜   第3話 見透かされる嘘

    それから、当たり障りのない会話が続いた。趣味のこと、好きな食べ物のこと。プロフィール帳に書くような、差し障りのない質問と回答。姉から叩き込まれた設定を頭の中で繰り返しながら、ボロが出ないようになんとか答え続けた。ところが──。「お仕事は、普段何をされているんですか?」ひどく自然に投げかけられたその質問に、張り詰めていた頭が一瞬でフリーズし、口が勝手に動いた。「広告の……プランニングを──」しまった。姉は、ファッションモデルのはずだ。「……っ、いえ。今はモデルの仕事を少しお休みしていて、その……裏方のお手伝いのようなことを」取り繕うように、慌てて言い直す。顔に熱が集まるのを感

  • 身代わりお見合いの花嫁〜冷徹社長は偽りの愛を見抜いている〜   第2話 偽物の名前

    ゆっくりと扉を開け、一歩足を踏み入れた瞬間、思わず立ち止まりそうになった。高い天井に広がる、クリスタルのシャンデリア。香ばしいコーヒーの香りと、白く気高く咲き誇る大輪の胡蝶蘭。磨き上げられた大理石の床に、自分が履いている安物のヒールの音がカツカツと不躾に響く気がして、それだけで萎縮しそうになる。場違いにもほどがある……。心の中で小さく呟き、緊張で強張りそうになる手を、そっとドレスの上の膝に置いた。ここで怯んだら、一瞬で「偽物」だと見破られてしまう。案内された席に着いた瞬間、背筋が自然と真っ直ぐに伸びた。膝を揃えて座る。手をテーブルに乗せない。視線を落としすぎないように前を向く。

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status